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2013年10月19日土曜日

リーガル•ハイに関する考察

 「半沢直樹」で大ブレイク!の堺雅人主演の今期クール「リーガルハイ」二期始まりましたね!
 視聴率ですが、一回目は半沢越え、二回目は16パーと落ちてしまったようですが、視聴率がここまで取り上げられるのはやはり「半沢〜」の所以でしょうね〜

 「半沢〜」が気になって、見始めて、面白くて、堺雅人って気になるな〜と思い始めまして、、、
 同じくらい面白いと言われて「リーガル•ハイ」一期をオススメされ、「半沢〜」最終回後、「リーガルハイ」二期開始前に一気見してしまいました。



 ご存知の方も多いと思いますが「リーガルハイ」は法廷を舞台にしたコメディです。
 法廷ものといえばシリアスと相場は決まっている様な気がしますが、見てみるとコメディ色の強さで異彩を放っていました。

 ただ、、
 この作品を制作された方々には、現行の司法制度について確かな意見•思いを持っていて、笑いに隠してその私見をきちんと打ち出している様に思えます。


 「我々は神ではない、所詮ただの弁護士だ。真実が分かる訳がない。検察の証拠が不十分だったから被告人は無罪になった、それだけだ。」

 第一話、無罪となった担当した被告人が本当に無実なのか信じきれなくなった黛への古美門のこの台詞が、端的に作者の意見を表現していると思います。

 「無実」と「無罪」は本来違う
ただ「無実」ではないと証明できない以上「無実」で「無罪」と判断せざるを得ない
という現状の法治主義への諦め、ただ、それに頼らざるを得ない状態から法治主義を尊重する姿勢、相反した二つの思いが透けて見えます。


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 自分には、これは政治学に於ける「民主政治」の扱いかたと似ているように思えます。

アメリカが戦争を起こす口実にするなど、「民主制」は西洋的な価値観のせいか、何か普遍的なものだと思われがちです。しかし、本来ベストの政治方式ではなく、一番失敗をしにくいという意味での次善策に過ぎません。

 政治体制について紐解いてみると、、、
古代中国に於いては、徳と智を積んだ支配者が善政を敷いていたといわれており、教科書ではこれを「王道政治」とよんでいました。
時代が下っていくとともに、「王道政治」は廃れて形を変え、支配者は民から搾取をしていくようになっていきます。これを教科書では「覇道政治」呼んでおり、絶対王政や奴隷制含む身分制の大元と言えるでしょう。
その「覇道政治」に終止符を打ったのが、現在の「民主制」という考え方です。

「覇道政治」は置いておいて、
「王道政治」と、現在普遍性を獲得している「民主制」。
正常稼働時にどちらがよいかと言えば、間違いなく前者です。

政(まつりごと)は政策立案だけではなく、政策決定•政策実行から成り立ちます。

徳と智を積んだ支配者は、民におもねることなく事柄をミクロ•マクロ両面から捉えることができる万能な人ととらえられており、短期•長期の視点からも政策立案を間違えることはありません。また、支配者として統治機構を総覧しているため、政策の決定と実行は速やかに行われます。

対して民主主義では、
①複数の意見を集約するため立案に時間がかかり、実行も別の組織が行うため遅くなりがち
②決定自体もポピュリズムに陥りかねない、
とスピードと正確性の点でリスクがあります。

結果としては、「民主制」よりも万能な支配者に政治を委ねる「王道政治」の方が、そのコミュニティの構成員にとって有益です。
(ただ、利害関係が複雑化している社会において、「王道政治」なるものが本当に存在するのか?というような存在論的な問題は置いておいて、、、)

 ただ、徳と智を兼ね備えた万能な支配者になりうる人など存在せず、「権力は絶対的に腐敗する」ため、いかな人の手によっても王道政治が実現することはない(=覇道政治に陥る)ということから、より破綻しにくい民主制を採らざるを得ない、というだけだと思います。

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法治主義も同じようなことが言えます。

もし法廷に全知全能な存在がいれば、真実をいとも簡単に見つけ出し、それに基づいて判決を出すことが出来るでしょう。スピードも正確性も申し分ありません。

ただ、そんな人は法廷にも存在しません。弁護士も検事も判事も、所詮欠点だらけの人間です。

事実を事実だと示すことすら一苦労の状態だからこそ、被告側と原告側を競わせるゲーム性を裁判に持たせている様に思います。

事実、真実を明らかにするのであれば本来到底許されないと思うのですが、弁護士は依頼者の不利になることは証言する必要はありませんし。(偽証はいけませんが)

そのため、事実があって判決があるというよりは、判決を自分の求めるところに近づけるために事実認定を狂わせる、などという逆説的な戦術も十分採る余地があります

実際に、殺人などの重大犯罪の被告に対する精神鑑定の結果を巡る攻防などを聞いて、やるせない気分になったことは、皆一度二度ではないはずです。

古美門が行っている法廷戦術は、一見するに、このような逆説的法廷戦術のオンパレードに思えます。
(もちろん、コメディなので大袈裟だったり現実離れしている描写もありますが)

ただ、その行動の裏に次善の策に過ぎない法治主義に対する、古美門のやり場のない思いを感じ取ってしまうのは自分だけでしょうか?

第四話で、マンション建設に反対する「善き」住民に共感する黛の見方を「上から目線の同情」と、より広い視点から切って捨て、自らの依頼人のため最善を尽くすよう彼女を叱責した古美門の台詞

コメディ調にはしていましたが、黛をやり込める言葉の端々に、真実を渇望しながらもそれにはたどり着けないと悟りきった法律家の諦観と、それでも彼が持つ自身の仕事に対する誇り・責任感を強く感じました。

裁判を正義・善を実現する場と短絡的に考えている黛と、そのことの困難さを渇望するが故に知り尽くした古美門のやり取りが、このドラマに深みを与えている気がします。




ま、一言で言えば、コメディとして面白おかしく気楽に楽しめるけど、時々深いことも言ってて、「リーガル・ハイ」はいいドラマだよ、ってことです!